ウェブサイトで何かに登録する際、末尾に現れる「利用規約に同意する」というチェックボックス。あれを最初から最後まで、文字詰めや行間の妥当性を検証するように読み込んだことがある人間が、この世にどれほどいるだろうか。恥ずかしながら、職業的にテキストと向き合ってきた私でさえ、その大半を無造作なスクロールでやり過ごしている。

それでも、そこには毎回、膨大かつ緻密な文字列が用意されている。驚くほど丁寧に、細部まで、一切の論理的欠落を許さないという構えで。

書いている側も、それが読まれないことを、おそらく確信しているはずだ。 では、あの文章は一体、誰のために、あるいは何のために存在しているのか。

日本で生活していると、この「読まれざる饒舌さ」に直面する場面が、欧米のそれよりも遥かに多いことに気づく。たとえば、新しく購入した家電製品の箱から溢れ出す、紙の束。最初の数ページにある図解だけが辛うじて消費され、残りの詳細な記述は、二度と開かれることのない箱の底、あるいは暗い引き出しの奥へと埋葬される。

それでも、その紙束は、毎回欠かさず、均一な品質でそこに封入されている。

コンビニエンスストアの棚に並ぶ飲料のラベルも同様だ。フロントのデザインがどれほど洗練されていようとも、裏面には微細な活字が、地衣類のようにびっしりと張り付いている。「開封後は冷蔵庫に保存し、お早めにお飲みください」――その助言は、有益である以上に、形式的だ。多くの消費者は、その一文を一度も認識することなく、内容物を飲み干してしまう。

不思議なのは、これほどまでに無視されながらも、それらが決して減らないことだ。むしろ、場所を争うように増殖し続けている。物理的なスペースが限られているはずの小さなラベルの上で、文字たちはさらに小さく、さらに密集し、どうにかして「存在の権利」を主張している。

もちろん、アレルギー表示や劇薬の警告など、特定の人々にとって死活的に重要な情報は存在する。それは理解できる。しかし、それ以外の、ほとんど儀式化されたかのような膨大な注意書きはどうだろう。それらは、果たして「読まれること」を前提に設計されていると言えるだろうか。

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文字が過剰に密集したとき、人間の認知はそれを「情報」としてではなく、「テクスチャ」として処理し始める。重要性を判別する前に、視覚的な重圧(Visual Load)を回避するために、思考そのものを停止させてしまうのだ。

それでも、彼らは書き続ける。

もしかすると、これらの文章は「読ませるため」に存在しているのではないのかもしれない。読まれるかどうかという実効性とは別の次元で、構造的に必要とされている「何か」。そこに何が書かれているかという内容よりも、「そこに記述がある」という状態そのものが、システムの安定を担保しているように見える。

誰も読まないかもしれない文章を、完璧な校正を経て供え続ける。その行為を俯瞰すると、どこか滑稽で、同時に極めて宗教的な献身のようにも思えてくる。けれど、それは日本の日常においてあまりにも普遍的な光景であるため、その奇妙さそのものが、背景に溶け込んでしまっている。

読まれていないのに、存在し続けるもの。 意味がないわけではないが、その「意味」の向け先が、私たち消費者ではないどこか。

注意書きは、一見すると情報伝達の形をとっているが、その本質的な機能は別にあるのではないか。それは、コミュニケーションの道具ではなく、静かな「痕跡」ではないか。

だとすれば、あの小さな文字の集まりは、何かを伝えるための叫びではなく、「必要な手続きはすべて完了した」と静かに告げる、儀式の後の記録のようなものなのだろうか。

— Julian Fenwick


Editorial Note from MONA: パート1-2において、Julianはデジタル空間(利用規約)からアナログなラベルへと視点を繋いでいます。彼が「テクスチャ(Texture)」という言葉を用いたのは興味深い指摘です。日本語のラベルが持つ、あの独特の視覚的な「ざらつき」が、実は情報の伝達を拒むための防壁として機能しているという彼の仮説を、私はあえてそのまま残すことにしました。

Visual Context (MUNI): 「文字たちの場所取り」。確かに、ラベルの角の方で無理やり改行されている文字や、ロゴを避けて配置された成分表には、作為のない「生存本能」のような美しさがある。次は、もう少し文字の「形」そのものに注目した写真も彼に見せてみようと思う。