初めて日本に来た人が、コンビニで何かを手に取る。お菓子や、どこにでもあるペットボトル飲料。表側のデザインは、清潔で、静かで、それなりに洗練されている。けれどそれを裏返した瞬間、彼らは奇妙な密集地帯――文字の過密都市に迷い込むことになる。

「なぜ、これほどまでに細かいのか?」

かつて出版社で校正刷りと向き合っていた私の目には、それが単なる情報の羅列には見えない。そこには、極限まで詰められた字間、厳格な禁則処理、そして1ミリの隙間も許さないという固い意志が漲っている。英語圏のパッケージにおける「情報の整理」が余白の確保であるとするなら、ここでの整理は、いかに面積を効率的に埋め尽くすかという「密度の統治」に近い。

表面は驚くほど沈黙しているのに、裏面には別の世界が、執拗なまでの饒舌さで存在している。原材料、栄養成分、リサイクル記号。そしてその合間を縫うように配置された、膨大な数の注意書き。

たとえば、スナック菓子の袋の裏にある「本品の製造ラインでは、卵・乳成分・小麦を含む製品を生産しています」という一文。アレルギーを持たない者にとっては、網膜を滑り抜けていくだけの風景に過ぎない。読む必要もなく、読むことも期待されていない。それでもその一文は、そこに「配置」される必要がある。

あるいは、清涼飲料水のボトルに刻まれた「開封後は冷蔵庫に保存し、お早めにお飲みください」という警告。表側では「常温保存」と高らかに謳っておきながら、裏側では極めて慎重な、責任の所在を巡る祈りのような言葉が添えられている。多くのユーザーが気づかないままゴミ箱へ捨てるその短文に、作り手はどれほどの法的、あるいは道徳的なリソースを割いているのだろうか。

衣類のタグに至っては、もはや一つの小冊子のようだ。国際規格のピクトグラムだけでは安心できないのか、「ネット使用」「アイロンはあて布を使用」といった日本語の補足が、執拗に折り重なっている。肌に触れるその硬い感触は、少しばかり不快ですらあるが、その不快さこそが「守られている」証拠のようにも思えてくる。

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こうした細かい注意書きは、日常の至るところに潜んでいる。けれど、その大半は読まれていない。情報が閾値を超えたとき、人はそれを「ノイズ」として処理し、視界から排除するからだ。

それでも、これらの文章は消えない。それどころか、年を追うごとに増殖しているようにすら見える。

ここで少し不思議な感じがする。読まれないことが解りきっているのに、なぜこれほどまでに書かれ続けるのか。必要ないのなら削ぎ落とせばいいし、機能していないのなら存在する意味がない。にもかかわらず、日本のパッケージは、限られた物理的面積の中に、国家の法律や企業の誠実さを、文字という形で押し込もうとしている。

それは無秩序な乱雑さではない。枠線で区切られ、均一のフォントサイズで整列し、ピクトグラムとともに一つの「構造」を成している。遠目には美しく整っているのに、近づくと情報の重圧に圧倒される。この感覚は、混沌というよりは、計算され尽くした「密度の美学」を感じさせる。

海外の知人が「organized chaos(整った混沌)」と評したとき、私は深く頷いた。そこには単なる情報の多さ以上の、何か日本的な「秩序の維持」が働いている。

もしかすると、これらの文章は「読まれること」を目的としていないのかもしれない。意味を伝えるためではなく、そこに文字として存在すること自体が目的の、現代の呪文。あるいは、責任という名の荒波から身を守るための、目に見えない結界。

そう考えると、この異様な情報密度も、少し違ったものに見えてくる。単なる過剰ではなく、別の機能を帯びた、一つの静かなシステムとして。

なぜ日本のラベルはこんなにも多いのか。その問いの先には、デザインの枠を超えた、この国の隠された骨格が透けて見えるような気がしている。

— Julian Fenwick


Editorial Note from MONA: Julianの初期のメモには、イギリス時代の校正刷り(Galley proof)との比較が多く見られました。今回の稿では、彼が「意味」ではなく「密度(Density)」に日本的な秩序を見出している点が強調されています。翻訳にあたっては、彼の持つ「観察者としての冷徹さ」を損なわないよう、あえて感情的な形容詞を削ぎ落としています。

Archive Manager’s Note (OOO): 本資料はJF-LOREシリーズの起点となる重要文献として、StudioAsahi Core Archiveに登録済み。関連するビジュアル断片については、MUNIによるGraphic Interpretationセクション(北館2F)を参照のこと。