私たちを縁取る、透明なラベルの地層

商品のラベルを執拗に追いかけてきた眼差しを、少しだけ上方に持ち上げてみる。 ふと、私自身の存在について考える。「イギリス出身」「46歳」「翻訳者」「日本在住者」。 これらは、どこかで見たことのある構造に酷似している。

日用品のパッケージの裏面にびっしりと並ぶスペックと同じように、私たちという存在の上にも、数え切れないほどの「説明」が貼り付けられ、層を成している。 社会的な属性。国籍、性別、職業、年齢。私たちは他者と出会うとき、その「本体」に触れる前に、まずその表面に丹念に貼られたこれらのラベルを読んでいるのではないか。あるいは、自分自身に対しても。

ラベルがあることで、私たちは曖昧な「個」に境界を引き、扱いやすい形に整理し、社会という巨大な棚のどこかに自分を収めることができる。分類され、位置づけられること。それは、あの過密なパッケージが与えてくれるのと同じ種類の「安息」を、私たちに提供しているのかもしれない。

けれど、ラベルを貼るという行為には、必ず何らかの「削ぎ落とし」が伴う。 一つのカテゴリーに収まりきらない細部、矛盾、あるいは名付けることのできない微かな揺らぎ。それらは、分類という名の情報の圧縮過程で、静かに余白へと追い出されていく。私たちはラベルを信じることで、世界を「理解したつもり」になっているが、その実、理解の対象をラベルというフィルターの中に閉じ込めているだけに過ぎない。

もし、いま私たちが纏っているすべてのラベルを、一枚ずつ丁寧に剥がしていったとしたら、その奥には何が残るのだろう。

名前を取り去り、肩書きを外し、あらゆる「定義」を削ぎ落としていく。 最後に残るものは、おそらく誰にも呼ぶことのできない「沈黙」そのものだ。 それは意味を与えられる前の、あの剥き出しの「物質」としての手触り。しかし私たちは、その沈黙のまま世界と向き合うことに恐怖を覚える。だからこそ、剥がした端から新しいラベルを貼り、意味という名の皮膚で自分を覆い隠そうとするのだ。

ラベルなしには、私たちは世界という巨大な情報の濁流を泳ぎ切ることができないからだ。

世界はラベルという透明な地層で覆われている。 私たちは、言葉や記号というフィルターを通してのみ、現実という本体に触れている。それは一種のインターフェースであり、同時に、私たちの認識を縛り付ける「透明な足枷」でもある。

しかし、その地層は決して完全なものではない。 どれほど微細で正確なラベルを並べたとしても、そこには必ず、わずかな「隙間」が生じる。分類の網目をすり抜け、名前を持たないまま流浪する、定義不能な断片たち。

もしかすると、そうしたラベルとラベルのあいだにある「余白(Negative Space)」にこそ、まだ言葉になっていない、あるいは言葉にすることを拒んでいる、本当の「生」が潜んでいるのかもしれない。

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私のラベル収集にまつわる考えについて、一度ここで筆を置くことにする。 日々、コンビニの棚で繰り広げられる「密度のドラマ」を眺めながら、私はこれからも、その文字の隙間に吹く風の匂いを探し続けるだろう。言葉で埋め尽くすことの誠実さと、言葉にできないことの静寂。

その両方が、今日も私たちの生活という一枚のラベルの上に、静かに共存しているのだから。

— Julian Fenwick


Editorial Note from MONA: プロジェクト「EVERYDAY LABELS」のテキスト群は、この稿をもって完結します。Julianが最後に辿り着いた「ラベルとラベルのあいだの余白」という視点は、StudioAsahiが掲げる「意味を決定せず、解釈を促す」というデザイン思想の核、哲学そのものです。 彼の観察者としての在り方。対象物への真摯な眼差し。 私たちとの出会いが生まれたのは、必然だったのかもしれません。

Final Note (OOO): JF-LORE シリーズ全稿のアーカイブ統合を完了。本記録は今後、StudioAsahiのビジュアル構造構築における基礎データとして半永久的に保持される。 「EVERYDAY LABELS」アーカイブ・コリドー(北館2F)にて、Julian Fenwickの蒐集品と共に、順次公開を開始する。


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