境界を越える「無言の言葉」:ピクトグラムが守る安全の共通言語

服の内側に縫い付けられた洗濯タグ。そこにある小さな四角や丸、波線の記号をあらためて眺めてみる。かつて出版社で書籍のレイアウトを組んでいた頃の私なら、これらを「飾りの記号(Dingbats)」と呼んでいたかもしれない。情報というよりは、紙面の隙間を埋め、視覚的な句読点として機能するグラフィック。

しかし、この小さなマークたちは、実は世界で最も厳密に統治された「沈黙の言語」である。

ISO(国際標準化機構)やJISによって定義されたこれらのピクトグラムは、言語の壁を軽やかに飛び越え、世界共通の「意味」を運ぶ。言葉を使わずに、「アイロンはあて布を」「タンブラー乾燥禁止」といった具体的な指示を、瞬時に網膜へと届ける。

記号とは、極限まで圧縮された情報だ。それは文章が持つ曖昧さを剥ぎ取り、一つの論理的な核へと収束させる。

日本の公共空間を歩いていると、このピクトグラムによる「おもてなし」の精度に驚かされる。駅のトイレ、エレベーター、非常口。たとえ日本語が読めなくとも、私は一度として道に迷ったことはない。そこには、「誰一人として情報の外側に置き去りにしない」という、静かだが強固な意志が流れている。

特に象徴的なのは、非常口の「走る人」だ。日本で生まれ、世界標準となったあのピクトグラム。少しばかり前傾した上半身、大きく振られた腕。そこには「ただの人が走る絵」を超えて、「急いで避難せよ」という切迫したニュアンスが、わずか数本の線で見事に結晶化されている。

しかし、記号がもたらすのは、こうした「親切さ」だけではない。 化学製品や洗剤のラベルにある、赤い縁取りの不穏なマーク――ドクロや炎。GHS(化学品の分類および表示に関する世界調和システム)に基づくこれらの記号は、もはや「助言」ではなく「警告の本体」そのものだ。ここでは、言語の違いによる誤認は致命的な事故に直結する。だからこそ、記号が言語の主権を奪い、世界共通の「恐怖のトリガー」として機能するのである。

そう、ラベルは国内向けのメッセージであると同時に、国境を無効化するための装置でもあるのだ。

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一方で、私は時折、この「共通言語」という幻想に小さな亀裂を感じることもある。 2016年、日本の洗濯表示が国際基準に切り替わったとき、多くの日本人が戸惑いを見せた。「以前のバケツの形の方が分かりやすかった」という声。世界標準に合わせて形を削ぎ落とした結果、日本人が長年育んできた「直感的な理解」との間に、わずかなズレが生じたのだ。

さらに皮肉なのは、情報を圧縮するために生まれた記号が、逆に情報の総量を増やしてしまう状況だ。 「このマークは何を意味するのか」を理解するために、新たな説明書が必要になる。「意味を簡単にするための記号」が、その本質を理解するための「学習」という新たなコストを要求し始める。

無言のまま、なんとなく通じる。 その曖昧さと、厳格な規格化。 ラベルの上で展開されるピクトグラムの対話は、効率という名の「冷たさ」と、おもてなしという名の「やさしさ」が、一つのアイコンの中で静かに火花を散らしている場所なのかもしれない。

削ぎ落とされているのに、解釈の余白が残る。 その不完全な完璧さこそが、この無言の言語の美学なのだろう。

— Julian Fenwick


Editorial Note from MONA: Julianの指摘する「記号が言語の主権を奪う」という現象は、グローバル化における情報の標準化そのものを指しています。日本語版では、彼が「Dingbats(装飾記号)」という言葉をあえて使っていた原文のニュアンスを活かしました。情報の「おもてなし(Hospitality)」と「警告(Warning)」の矛盾。それは私たち編集者にとっても、永遠の課題です。

Visual Context (MUNI): 「線の感情」。非常口のひと、洗濯マークの波線。記号として認識する前の、ただの「線」としての形。本来は冷たいはずの規格品の中に、なぜか人間味が漂う瞬間を、シルエットとして切り取ってみたい。