加筆の力学:「念のため」の集積

「念のため」の集積:日本のパッケージが文字で埋まるまでの力学

手元にある古い菓子のパッケージ写真と、いまコンビニの棚にある同じ製品を見比べてみる。記憶の中のそれは、もう少し清潔な「余白」を保っていたはずだ。しかし現在の裏面は、まるで終わりのない増築を繰り返した九龍城砦のように、微細な文字が過密な地層を形成している。

元校正者としての習慣で、私はつい「削れる場所」を探してしまう。優れた編集とは、不要な言葉を削ぎ落とし、主題を際立たせることにあるからだ。しかし、日本のラベルという特異なメディアにおいて、その論理は通用しない。そこには「引き算」という概念が欠落しているように見えるのだ。

ラベルの密度が増していく背景には、法律という名の「足し算の歴史」がある。原材料、アレルギー、原産地、原産国、保存方法。制度が更新されるたびに新しい項目が地層の上に重なっていく。興味深いのは、一度追加されたものが「もう不要である」と判断されて消え去ることは、ほとんどないという点だ。

2015年に食品表示法が一元化された際、煩雑だったルールは整理されたはずだった。しかし、現場での出力結果を見れば、結果として密度はさらに増している。整理とは「まとめる」ことであり、まとめることは「すべてを一つの面に載せる」ことを意味したからだ。

この「足し算」の力学を決定的に加速させたのは、1990年代に施行された製造物責任法――いわゆるPL法だろう。この法律の出現により、企業にとってのリスク定義は変質した。「危険なものを排除したか」だけでなく、「あらゆる可能性を警告したか」が生存の条件となったのである。

ここで、ラベルの性格は「情報伝達」から「防御」へと劇的にシフトする。「書いていなかったこと」がそのまま巨大なリスクとなり、逆に「書いてさえいれば、それは盾になる」という倒錯した信頼感が支配する。

注意書きはもはや、今ここで読む人のためのものではない。それは、未来に起こりうる訴訟やクレームという嵐から、企業という城を守るための「証拠の積み重ね」なのだ。

さらに、この集積を強固にしているのが、日本の特有の「クレーム対応の痕跡」である。 たとえ数万人に一人という稀有な事例であっても、一度トラブルが発生すれば、それは新たな警告文としてラベルに刻印される。「電子レンジで加熱しないでください」「袋の端で手を切らないようご注意ください」。それらは個別の痛みが残した「傷跡」のようなものだ。そして一度刻まれた傷跡を消し去る勇気を持つ企業は、この国にはほとんど存在しない。消すための理由よりも、残しておくための理由(=念のため)の方が、常に強力だからだ。

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一方で、私はこの物理的な集積の背景に、日本的な「デジタルへの不信」を感じずにはいられない。 欧州のパッケージであれば、詳細な情報は二次元バーコードの先に逃がされ、表面はデザインの純粋さを保つことができる。しかし日本では、そうした「情報の外部化」は主流にならない。

「このパッケージという物理的な枠の中に、必要なすべてが収まっているべきだ」という、ある種の完結性への執着。それは不親切を徹底的に排除しようとする「配慮」の現れでもあるが、同時に、情報のすべてを掌の中に物理的に保持しておきたいという、触覚的な安心感の要求のようにも思える。

結果として、情報はパッケージから溢れ出し、文字は極小の級数へと追い詰められ、読まれないことを前提とした「完璧な記述」が完成する。

削る理由がない構造。蓄積を肯定する制度。そして、完結性を求める文化。 そのすべてが共鳴し合った結果として、あの眩暈(めまい)がするような密度が生まれている。

あの裏面は、もはや商品の説明書ではない。それは、日本という社会が過去数十年間にわたって積み上げてきた、安全と責任を巡る「格闘の全記録」なのだ。

— Julian Fenwick


Editorial Note from MONA: Julianの指摘する「引き算の欠落」は、日本語の「安心(Anshin)」が「情報量」と比例関係にあることを鋭く突いています。論理的な「安全(Safety)」だけでは足りず、情緒的な「安心」を担保するために情報を盛り込み続ける。翻訳の過程で、彼の言う「九龍城砦」という比喩を活かすことで、この過密な美学を表現しました。

Visual Context (MUNI): 「積み上がる地層」。テクスチャとしての文字。情報を読ませるのではなく、その「密度」そのものをビジュアルとして切り取ること。顕微鏡で覗いたときのような、極小の文字が織りなすパターンを商品のグラフィックに反映できるかもしれない。